ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

19

 まるで悪夢のように足がもつれて、走っても走っても前にうまく進まなかった。ようやく家に帰ると、靴を捨てるように脱いで、玄関はもとより全ての窓の鍵を厳重に閉めるも全く足の震えが落ち着かず、ハルは家を飛び出してマーシャの小屋の扉を叩いた。迷惑そうに半目を開けて出したけむくじゃらを両手でつかみ取っる。

「姉さん、やばい、どうしよう、どうしよう」ハルはマーシャにしがみついた。マーシャはまだ寝ぼけ眼で、妹の背中を赤ん坊にするようにトントンと叩いた。ハルはマーシャを押しのけると、檻の中に入り、マーシャのベッドの上で丸くなって布団をかぶり、震えていた。

マーシャは、檻の扉をきいと開けて、ベッドの横に腰を下ろし、布団の丸まりを見つめ、静かに、今日あなたを尋ねて来た人がいる、と言った。「黒い、がま口のような大きなハンドバッグを持った男の人だった」

 ハルは布団をガバッとはいだ。

「ここに、来たの?」

ハルは震える自分の身体を両手で抱えて押さえ込み、それでも鳴る歯を押さえ込むよう、きつく布団で自分を抱いた。

「あ、あ、あいつはヤバい奴なのよ」

ハルは溺れているように上向きに喋った。

「あ、あいつはサディストなの、そ、それも、ひどく…ひどくて…最初は淡白な人だなと思ったんだけどだんだん…」

「あの人は、あなたを忘れられないって言っていたわ」

ハルは、泣いているような、笑っているような奇妙な表情をマーシャに向けた。彼女は布団をはぎ、立ち上がるとベッドを降りて檻の中をウロウロと歩き、恐怖を身体から追い出そうとした。

「そりゃそうでしょうよ!あいつの相手をして、死ななかったのは私だけだったんだから!」

ハルは深く呼吸をし、手の平を額にあて、何度もこすった。鼻をつまみ、こすり、やがてベッドに腰かけると、彫刻のように動かなくなる。

「あいつ、はじめてのときね、私の顔見ながら抱いたのよ」乾いた声で、ハルは話し始めた。「だから嬉しくてさ、最後私の首に手をかけて、こうしないといけないんだって言われた時も、全然気にならなかった。首をしめられながら、こういうのも悪くないって、その程度にしか考えてなかった」ハルはごくりとつばをのんだ。マーシャはおやつの棚からりんごをふたつ持ってくると、ひとつを妹に渡した。ハルの両手の中で、それはひんやりと、重たい、無機質な物だった。

「お金をたくさんくれようとしてさ。私、商売女じゃないよって突っ返したら、すごく驚いて、人なつこい笑顔でにっこりしちゃってさ、また会ってくれるかなって聞くんだよ。そんなこと、言われたことないからさ、びっくりして、ええっとか言っちゃって、私も。そんなの、いいに決まってるじゃん?とか言っちゃって。全然好みじゃなかったけど、なんか好きかもとか思っちゃったりしてさ。あの坊ちゃん刈りさえどうにかしてくれたらな、今度会った時、言ってみようかな、とかさ。それで、二回、三回って会って行くうちに、あの黒い鞄から出て来るものが、だんだん多くなってきてさ…最初は、お医者さんごっことか言って、まあそれなりに盛り上がったりもしたんだけど」ハルは両手の中のリンゴに蜜を垂らすように言った。

「私あいつに鋏で乳首切られてんのよ」さらに蜜は垂れていく。「もう、愛撫なのか手術なのか拷問なのか、わからないことばかり…」マーシャは聞きたくないというように首を振った。

「檻にだって、入ったわ」ハルは笑った。

「こんな広いんじゃなくて、体勢の変えられないような、立ち上がれもしない小さな檻に長時間…」マーシャはため息をついた。

「私、怖くなって、住んでたところも引き払ったり連絡先も変えるんだけど、どうしても見つけられちゃう。何度引っ越しても…最後に連れて行かれた部屋には、あいつがどこからか連れてきた外国人の女と二人でやらされたりしてさ、きったなくて、臭くてさ、その女…あいつ、その女のこと、ぼっこぼこに殴ったり蹴ったりして、勢いあまって私も殴られて、気絶して…朝起きたら、目の前で、その女は口から泡吹いて冷たくなっていた。冷たい女が目の前で、がくんがくんて揺れてたの。あいつは、あいつは死んでる女に突っ込んで、恍惚とした顔で動き続けて…次は、私がやられるって思って、私…無我夢中で、逃げたの、逃げ切ったと思ったのに」

ハルは下唇を噛んだ。マーシャは、食べ終えたリンゴの芯をもてあそんだ。

「姉さん、あいつをやっつけて」

マーシャは乾いた笑い声をだした。

「やっつけてって、あなた、子どもみたいに」

「姉さんには力があるわ、木だって、倒せるじゃない」

「いやよ、そんな怖い人、ナイフやスタンガンや…銃なんかも持っていそうだし」

「大丈夫、姉さんにはなにもしない、だって姉さんはクマなんだから」

マーシャの手の中で、リンゴの芯がふたつに折られた。

「じゃあわかった、脅してみせるだけでいい!ねえおねがい、あいつを追っ払って!」

マーシャはゆっくり立ち上がると、ハルの肩の上に、肉球をのせた。

「あなたのことは、知らないって言ってある。あの家にいることは知らないから」

「どうせもうバルで聞いているわ」

「クマのいる家に、襲いに来るようなタイプには見えなかったけど」

「そんなことはしない、だけど、仕事の行き帰りとか私が一人の時にきっと」

「帰りはまっすぐ車で帰っていらっしゃい。怖かったら宿舎に泊まればいいんだし」

「姉さん。あの家に泊まってよ」

「それはできないわ」

マーシャの声は、固く響いた。ハルも、その返事をわかっていた。

「…その人は、ロッカにはなにもしないわね?」

ハルはうなづいた。マーシャも頷き、ぽんぽんとハルの肩を叩き、檻から出るように促した。

「いやよ、私ここから出ない、姉さんがあの家に来ないなら、私が檻に入るから !!」マーシャは困って、両腕でハルを抱えあげた。ハルはその腕を殴り続けた。

「おねがい、おねがい姉さん、おねがいよ…」

マーシャは困ったように、腕をふりほどくと、ハルはすばやく布団の中にくるまって、固くなった。マーシャは檻から出ると、かちかちの布団の玉に向かって、明日トムにも男のことは言っておくから、と小屋の外に出て行った。その背に向かって、「あんな鼻の長い変態やろうがいったい何の役にたつっていうのよ!」とハルは叫び、再び布団の中に頭を埋めた。