ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

18

 従業員控え室の鏡前を陣取って、切れた唇の端の具合を角度を変えて見ていた。二十代の女の子たちは入れ替わりと也の鏡前で唇の上下を合わせ、ポンっと破裂音をさせて、きゃいきゃいと部屋を出て行く。ハルは軟膏を傷口に塗り込めると、唇に美容液を塗り、口紅のキャップを外したが、手を止めて、再び蓋をするとポーチに投げ入れ、俯いた。扉の外で、白髪の女たちが、「自業自得だ」とハルを非難しているのが聞こえてくる。ハルは鏡の中の自分を上目遣いに睨みつけていた。

 ハルはその足で迷わずバルに向かった。外で飲んでいる男たちが、肩を寄せ合い、なにか言いながらこちらを見ている。無視して扉を開けると中の熱気がワッとハルを暖かく迎えた。ハルは鼻からそれを、大きく吸い込む。近くの席で立ち飲みしている男たちがハルを見つけると笑い出す。

「よう、ハル。お前郵便屋の嫁に殴られたんだってな」

「なんだよ、父ちゃんを取り合ってたのか?」

バーテンダーは、災難だったな、と小さく慰めを言って、瓶ビールを渡した。ハルはぐいぐいとそれをあおり、大きくゲップをすると、ようやく呼吸を取り戻した気がした。

 カウンターで隣に立った男が、自分の唇の横を指して眉を上げた。ハルは不機嫌にタバコに火をつける。

「なんだよハル、相手のかみさんに殴られるのは慣れたもんだろ」

「そうだよ、勲章だとか言っていつも粋がってるじゃねぇか」

ハルは口の端で煙を吐き、娘よ、と言った。

「ロッカが?」

「ちがう、むこうの」

はあん、と周りの男たち煮え切らない声をもらし、「そりゃ盛り上がんねぇな」と引き下がって行った。ハルは酢漬けのいわしを丸めたものを口に運び、その酢が傷口にしみ、顔をしかめた。いまいましい。ハルは舌打ちをしてタバコを灰皿に押し付けた。

「ジンでなにか甘いやつ作ってよ」ハルはバーテンに言った。

「そういうのはバーに行って頼んでくれ」バーテンは手で払った。

「そんな気取った店、こんな町にないでしょ」

「そんな気取った酒頼むなっていうんだよ」

「ジンが気取った酒だって?は、いやね、田舎は」ハルは点火しないライターをイライラと何度もカチカチ音を鳴らし、あげくたたきつけた。

「ねえちょっと火、貸して」

彼女の伸ばした手をバーテンは無視をした。ハルは舌打ちをし、ねえ誰か、と後ろを向いた瞬間、視界の端に、黒いものを捉えた。思考より、彼女の身体が先に反応した。心臓が大きくひとつ打った。ごくり、と喉が鳴る。脳があちらを見てはいけないという信号を送っている。あの黒い、あれは、鞄だ。ハルは、ゆっくりと、その黒いものの方へ、視線をうつして行った。首が、めき、めき、めき、と鳴る。ラフな半袖の男たちの中で、ひときわ目立つ、背広の背中がそこにあった。小さな背丈に似合わない、やたら広い肩幅。きちんと刈り揃えられたうなじ。傍らに、黒くつやつやと丸く膨らんだ大きなハンドバッグ。ハルの指からタバコが落ちた。どんどん冷たくなる指先で、声が出ないように口元を押さえ込む。ハンドバッグを見た男たちが、彼をからかう。お母ちゃんから借りてきたのか?こんなもん盗む奴はこの町にいないぜ、ホテルに置いときゃ良かったのに、よっぽど大事なもんが入ってんのかよ。愛想笑いをする男の筋張った横顔が見えたとき、ハルはほとんど倒れそうだった。ハルは震える指でお金をカウンターに置くと、男たちの間をすり抜け、逃げるように出て行った。