ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

15

朝もやの中、影たちに迎え入れられて、小舟に揺られて霧の向こう側へと消えていくマーシャに、ロッカは何度も声をかけようとするのだけれど、喉からは、曲が終わった後のレコードのような、サーッという音しか出ない。マーシャは影たちに囲まれながら、小さな盛り土のそばにしゃがみこむ。影たちは揺れて、マーシャがなにをしているのかは、こちらからはわからない。マーシャの毛の色が少しずつ黒くなっていく。細い煙がいくつものぼっている。煙は暗号。そこはスモークキングなの?
 夢から覚めて、ロッカは天井を見つめながら、ああ、マーシャは今日、「コキョー」に行ったのだと感じた。

 ダイニングキッチンに赴くと、案の定、立っているのはハルだった。流しにもたれかかるように、コーヒーを飲んでいる。

「おかえりなさい」

ハルは腕組みしたまま娘を見下ろしていた。

「私がいないといつもこんなに遅くまで寝ているの?」

ロッカは返事をせず、ダイニングテーブルの席についた。

「マーシャは、コキョーにいったの」

「ママにおはようの挨拶は?」

「ママだってしてない」

ふん、とハルは鼻を鳴らすと、テーブルの上に音をたててボールを置き、勢いよくシリアルとミルクを注ぎ入れた。

「こんなに食べられない」

「文句ばかり言わないで、忙しいんだから」

「ねえ、マーシャはコキョーに行ったんでしょ」

「ええ、そうよ」

「だからママが帰ってきたの?」

ハルはいらついた声で、ええそう、と漏らした。もしかしたらまた男に振られたのかもわからない。しかしそんなことはロッカにはどうでもよいことだった。彼女は今、正夢を見たという興奮が体中を駆け巡っていた。

「私、夢を見たの。たくさんの影たちがマーシャを連れて行ったわ」

「昨日の夜、マーシャに予定を聞いたせいでそんな夢を見たのね」

「ううん、マーシャには聞いていない」

「じゃあ私と姉さんが喋っているのが眠っているあなたの耳に届いたんでしょう、とにかく食べちゃって」

ロッカは両手を広げた。

「スプーンがない」

「赤ちゃんなの?」

ロッカは不満を音にして机を押して椅子から出ると、カトラリーケースの中をかきまぜた。

「朝からガチャガチャガチャガチャ…そこにあるじゃない」

「バラの柄のスプーンで食べたいの」

「なんだっていいじゃないの」

バラの花の柄がついた一本を掘り当てると、ロッカは満足げな鼻息をふかした。

「よかったわね、さあ、さっさと食べて」

ロッカはシリアルを頬張り、顔をしかめて、スプーンで皿の中をかき回した。

「…ない」

「かんべんしてよロッカ、今度はなあに」

「レーズンよ、いつも入ってる」

「知らないわよ、食べ尽くしちゃったんじゃないの?」

ロッカはシリアルの袋を手に取って、細かい字に目をこらしたが、そこにはレーズンの文字は見つからなかった。私が好きだから、マーシャはわざわざ入れてくれていたんだ。ロッカの胸がじんわりと温まった。

「は、や、く、た、べ、て」

ロッカは黙ってシリアルを口に運んだ。

「ママはどうしてコキョーに行かないの」

鏡の前で眉毛の上にペンシルを走らせているハルは、ええ? と曖昧な表情をして、一瞬その手を止めた。

「仕事があるからよ」

「じゃあマーシャが行けないときは、ママも行くの?でもママがコキョーに行ったことなんてあったかしら」

「食べちゃって、ロッカ」

「食べているわ」

「口にものを入れたまま喋らないで」

ロッカはわざとらしく大きなため息をついて、それから勢いよく口の中にシリアルを詰めこんでいった。そして全て飲み込み、やらなければならない全てのこと(歯磨き、洗顔、学校の準備)を終え、靴を履いて、振り向いた。

「ママ、私はいつ、コキョーに行ける?」

ハルの目が見開き、髪が逆立ち、ロッカは顔に鋭い風を感じた。殴られたのかとおもったが、ハルの手は、彼女の腕の先に垂れ下がったまま、軽く握られただけだった。

「あなたはコキョーには行かない。私も行かない」

その先をロッカは待った。しかし、ハルの目は、いい?わかった?と尋ねてくるだけだった。ロッカはこの至近距離でハルの砲弾が当たらぬよう、慎重に言葉を選んだ。

「でも、あそこには…私たちの親戚が、いるんでしょう?」

ハルは黙った。ロッカは待つ。やがてハルは、あそこにいるは、全員クマよ、と吐き捨てた。「それもあんたの思っているようなクマじゃない。目も鼻もない、口だけ空いた、そういう影みたいな…そういうクマたちだけが、暮らしている場所なの。口を大きく開けている真っ黒けが、黙って、首を大きくゆらしているだけの場所」

知ってる。ロッカは思った。いつも夢で見てる。ママが怒るから言わないけど。ママ、それ、私が思っていたクマたちよ。

「そのクマたちは、生きているの?」

娘の質問に、ハルは自分の腕を抱き、視線をあらぬ方にやった。

「そんなの、しったこっちゃないわ」

「影みたいなクマと、死んで影になったクマはいっしょに暮らしているの?それともみんな、同じクマなの?」

「だから、知らないってば。同じよ、生きてるクマも、幽霊のクマも、クマなんだから」

ぜんぜん同じじゃない、とロッカは思った。どう考えたって、ぜんぜん同じじゃないのに。

「わたしたちは、クマになるの?」

ハルは目をつむった。怒りを身体の外に押し出さないように強く飲み込んで、ゆっくりと言った。

「そんなことはない、現に、ママはクマじゃないでしょ」

「でもいつか…たとえば死んだら、私たち、クマの幽霊としてコキョーをウロウロするの?」

「やめてロッカ、いい? クマじゃない親戚もいっぱいいる、どこかでみんな暮らしている、ただ、あそこにいるのは、クマだって、それだけ。コキョーのことはクマにしかわからない、クマになったら考えればいいこと、わかった?」

「ママは死んでもクマになりたくないの」

「当たり前でしょう!?」

急ブレーキのようなハルの怒鳴り声に、ロッカの前髪とカーディガンの裾は吹き飛ばされた。

ハルは大きく息を吸って、靴につま先をねじこみながら、「とにかくコキョーの話は二度としないこと、いいわね」と言って玄関扉を荒々しく開けると、ロッカを明るい外へと追いやった。 

 

 黒板にチョークが行ったり来たりしている間、ロッカは尖らせた唇と鼻の下の間に髪の毛をはさみ、髪の匂いをかぎながら、コキョーのクマたちについて考えていた。生きているクマも、死んでいるクマも同じだなんて。クマはクマだなんて。そんなバカなことあるものか。

 ロッカはノートにマーシャの絵を描いた。それから、それを取り囲むように、夢に出てきた人の影のような、口だけ開いた、つるっとしたクマを描いて、全て黒で塗りつぶす。絵では、マーシャがやたらと大きくなったが、もしかしたら影のクマの大きいやつがいたりするのかな。ロッカはノートのはしに、大きな影のクマを描いた。マーシャが飲み込まれそうに見える。慌ててページを破って丸めて投げ、それが当たった前の席の男子が振り向き睨んできたので、ロッカは下あごを突き出し応戦した。