ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

13

 中折れ帽をかぶった男の、まっすぐに切りそろえられた襟足を、蟻が歩いている。男はそれをそっとつまみ、指でこねて丸めていく。もう一方の手には役場でもらったちらし、その肘には大きな黒いハンドバッグが揺れている。ちらしの中では、クマが「おいでよ!」と両手と口を広げている。

 森の中の小屋にたどり着くと、鼻の長い男がこちらに気づいて、曖昧な会釈をした。

「すみません、ここで、クマと写真が撮れると聞いたのですが」男は尋ねた。

ああ、と、トムは小屋の中に入って行く。ちらりと、檻なのだろう、大きな鉄の柵が見えた。しばらくして、トムは出て来た。

「ええと、ご予約されている…?」

「役場で予約がなくてもいいと聞いたのですが」

鼻の長い男は気弱そうに眉を寄せ、明らかに困っていた。

「そうですか…」

「これ、役場で買った、チケットです」

なにか言いたげな様子でチケットを受け取ったトムは再び小屋に入って行く。帽子の男は辛抱強く待った。今もなお動く彼の指の中で、蟻はすっかりただの黒点となった。首に鎖をつけたクマを引き連れて、再びトムは現れた。黒点が地面に落ちる。クマは言われた場所に座り込んだ。

「近づいても?」帽子の男は聞いた。

「ええ、どうぞ。おとなしいもんです」

答えを聞いて、帽子の男は小さなカメラを取り出した。まず一枚、クマの写真を撮る。クマはじっとしていた。帽子の男は満足そうに頷き、ええと、と困った顔で、「誰が僕とクマの写真を?」と聞いた。あ、と、トムは焦って、これ、と、鎖を帽子の男に差し出す。

「え」

「大丈夫ですから」

少しとまどったように、しかし嬉しそうに、細い弓なりの目つきで、男は鎖を両手で持った。クマとの距離をはかりながら、このへんで?と言って、カメラを持ったトムに向き直る。

「はい、撮ります。まずは一枚」

トムはポラロイドカメラで一枚写真を撮った。カメラから吐き出される一枚を、傍らの切り株の上に置く。

「お客様のカメラでもう一枚、撮りますから」

操作にとまどい、押すスイッチを教えてもらいながら、トムはなんとか彼らを写真に収めた。クマはアクビをした。ポラロイドを渡してもらって、帽子の男は笑い、これはこれは、などとつぶやいた。

「動物園なんかだと、クマはたいてい餌をもらいたさに、飼育員が出て来る扉付近を行ったり来たりしているか、寝ているかのものしかで…、いや、おとなしいものですな」男は関心しきりだった。「まるで犬のようだ」

はあ、とトムは気の抜けた返事をする。

「さわれそうだ」

トムは困った。クマは、トムを睨み上げた。

「さわれません」トムはロボットのように答えた。

本当に?と帽子の男は片眉をあげて笑顔を作る。トムは首を横に振る。男はスーツの懐に手を入れ、長財布を取り出した。

「いえ、お金じゃないんです。その…お客様の安全のために」

「しかし、万が一ケガをするなら、僕だ」

「ケガを追わせてしまったら、それは、こちらの監督責任ですから」

男は長財布を胸ポケットにしまうと、マジシャンがするように人差し指をトムの長い鼻先に立てた。そして、大きなハンドバッグから、それこそマジックのように金貨を取り出してみせた。

「これでどうだろう」

トムの喉はごくりと鳴った。男は更に、指の隙間から宝石も出した。

「ちょっと、背中をさわるだけ。あなたが鎖を持っていてくれれば」

トムの手は鎖を握り直した。その瞬間、クマが首を大きく左右に振り、トムの腕は暴れた。

「あ、あ、やっぱり、ダメです。ごめんなさい、お金じゃないんです」

男は、残念だなと言って笑い、金貨と宝石をしまった。そしてハンドバッグをパチンとやって、ところで、と男は切り出した。

「このあたりに、背中のキレイな女性はいませんかね」

クマの目がトムに向いた。気配を感じたのか、男は首をひねってクマを見た。慌ててクマは、顔をぬぐってごまかす。

「さあ…そう…言われましても…」トムは困ったように笑った。

「そういう噂を聞いたことは?」

トムは首を曖昧に振った。

「本当に?」

トムはおどおどと頷く。

「不思議だな。この町の人にこの質問をすると、女性はまるで知らないと健やかに笑い、男性は皆、ばつが悪そうに口ごもったり、奇妙な表情になる。知っているのに知らないふりの顔を」

「そうですか」

「しかし君は…本当に知らないようだ」

「覚えているのは背中だけなんですか?」

うん、と帽子の男は照れ笑いをする。なぜ照れるのだろう、とトムは不思議に思う。

「彼女の顔をどうしても思い出せない。どこにでもいるような顔だったのか…。背中は覚えているんだ。あの美しい背中…。僕は決して女性全般の背中に何かしら特別な思い入れがあるわけではないよ」帽子の男はうっとりとした表情を浮かべた。「肩甲骨は二枚の羽のようだった。真ん中を走る背骨のラインは細い、滝を見るようで、少しうつむいた首から腰までのラインが、うなだれた、白い、首長竜のように…。絹のベールをかぶせられた化石のように…」

男は目をうるませた。つまらなそうに聞いていたトムの表情を見て、男はおや、と思い、それから、やたらと頷いた。

「君が、羊を飼っているという人か」

「え?ええ…」

「恋人が羊じゃ、人間の女の背中になんて、興味ないだろうね」

トムの表情は消えた。

「君だろう、動物園のヤギに手をだしたことがバレてクビになったって男は。羊の恋人がいるっていうのに、クマにも手を出しているのかい」

「マーシャはそんなんじゃない」トムの鎖を持つ手は震えていた。何重もの意味をこめて、それは正しかった。彼女は彼の『タイプ』ではなかった。

「それは失礼」帽子の男は鎖に手を伸ばした。トムは驚き、反射的に鎖を引き上げ、クマの頬の肉が上がった。しかし帽子の男は、今はクマには興味を示さず、そっと鎖の端を握った。そして目を細めてその感触を味わう。

「あの」トムが諌めて、男は笑って手を放した。しかし、名残惜しそうに手の中を見ている。

「すみません、もう、時間なので」

ああ、と言って、帽子の男は少し会釈をして去って行く。男の姿が見えなくなってしばらく経ってから、トムはクマの首から首輪を外した。マーシャはぶるっと一度首を振り、首輪のあった辺りを爪で掻いた。それから立ち上がって、腰をそらし、うーん、と唸った。

「鎖、きつかったかい」

「大丈夫、それより」マーシャは神妙な顔で男の去った道を見つめた。

「ああ、予約の件は、役場にきちんと注意したほうがいいね」トムは小屋に向かった。マーシャの気がかりはそのことではなかったが、言わずに曖昧に返事をし、トムの後をついておやつを食べに小屋の中に戻った。