ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

9

 男の見ている景色のはじっこで、声がする。破裂音を繰り返し発している少女を見て辺りを見渡し、その発音が「ボッカ」であることを注意深く確認してからようやく男は、自分を呼んでいるのだと気づいた。

 ブルーグレーのレンズの中に映し出された自分を発見して、ロッカは鼻の穴を膨らませた。

「ボッカっていうんでしょ、あなたの名前。そう聞いたけど…ちがったらごめんなさい、ボッカ、で、いいの?」ロッカは早口にまくしたてた。男はゆっくりと、あいまいに首をかしげた。ロッカは眉をひそめた。

「…ちがうの?ボッカじゃない?ボッカ?どっち?」

男は手を出しかけて、顔の横で止めると、なにかを考えているように上を向き、手を握ったり閉じたりした。ロッカは首をひねり、少し考え、リュックサックからスケッチブックを取り出すと、口でペンの蓋をくわえたまま「あなたはボッカですか?」と書いて、ボッカに見せた。男はそれを見て、眉をひそめ、顔を近づけたり、遠ざけたりする。

 通じないと悟ったロッカはすばやく聾唖のご婦人方に、「この人にあなたはボッカっていうんですかと聞いてくれ」とスケッチブックに書いてそのページを向けた。ご婦人方は揃って明後日の方向に、つん、と澄まし顔をする。ロッカはカッとなってスケッチブックに「あんたたちがいつもソーシャルワーカーのお尻の話ばかりしていることをみんなに言いふらしてやるから!」と書きなぐってそれを向けると、慌てて彼女たちは、愛想良く男に咳払いをひとつして注意を向けると手指を動かしてみせた。しかし男はため息をついて首をふる。ご婦人方も、両手をあげて、ロッカに首を振った。

 ブザー音がして、乗車口のドアが開く。ご婦人がたが乗り込み、男はバスの後ろに回る。ロッカは背伸びをして運転席の窓ガラスを叩くが運転士は気がつかない。ロッカは車体を蹴りつけた。

「おい!」運転士が窓を開けて怒鳴った。

「あのボッカってひと、にんげん?」

ロッカの問いに、彼はからかうように笑った。

「あれもクマに見えるのかい?それともキツネに?」

しかし彼女は真剣な顔で首を振った。

「もしかして、ロボットなのではと…」

その気取った様子に、運転士は爆笑した。

「ああ、そうかもな、人間かどうかは聞いていないからな、ただ俺は外国人なんだと思っていたけど」

「外国人なの?」

「目、見りゃわかるだろ」

「わからなかった」

「お前さんにはクマか人かの区別しかつけられないんだろ」

運転士の嫌味を、ロッカは無視した。

「どうしていつも座席に座らないの?」

「あんな長いもの持ってちゃあ、入れないんだろう」

「あの人、煙突掃除?」

「いや、だからボッカ」

「だからボッカ?」

運転士はあきれた。

「お前、ボッカを知らないのか?山に荷物を歩いて運ぶ人を、ボッカっつうんだよ。塾さぼってばっかいるからなんもしらねえんだな」

確かに今日は塾をさぼった。ロッカは顔を赤くした。

「塾ではそんなこと習わない。計算してばっかりよ」

「あの噴火で、荷運びのヘリが飛べなくなっちまったろ。だから、ああやって、人でもって荷物を運ぶんだな」

「山に誰がいるの」

「降りて来ない山小屋のバカと、降りてこないお偉いお坊さんだ。そいつらのために、朝早くに山に登って、この便で帰っていくってわけさ」

「ここから、朝早く、歩いていくの?」

ロッカの瞳は白い道をたどった。途切れ、そのずっと先の山脈。

「どこに帰るの?ホテルかなにか?」

「自分で聞けよ」

「だって…ねえ、こっちの言葉、ぜんぜん通じないの?」

「さあ、通じるのかどうか、ためしたことはないね。客は見て見ぬふりがマナー。なんなら、客じゃなく、果物を運んでいるぐらいの心づもりさ」

運転士はご婦人方にあごをしゃくった。「ありゃ、よく熟したカスタードアップル」

 バスからシューッと音が出て、パスンパスンと去っていく。その砂煙と排気ガスの中、男のはしごの段が見えたりかすんだりして消えて行く。マジックショーのように、とロッカは思う。