ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

7

 従業員控え室の鏡前を陣取って、丁寧に唇の下地を塗って、リップライナーで形を作り、しつこくしつこく紅筆で口紅を塗り込めていた。他の従業員はそんなことはしない。二十代の女の子たちはちょっと髪に手を入れて、鼻の油と下瞼に落ちたマスカラを取って、粉をはたき、リップクリームを塗る容量で直接口紅をぐるりと塗って、唇同士を合わせ、ンパッといい音をさせたら、小さなバッグをくるっと回して、なにたべいくーなどキャイキャイ言いながら去って行く。ハルのやり方はまるで絵画の修正作業だ。飛び出た眼球のふちに、緑のラインをひいては直す。中年女たちのあきれたまなざしや、若い女のクスクス笑い(ドアを出た途端の爆笑)も気にせず、ハルは恐ろしい実験をしている研究者の血走るまなざしでもって自分の顔に色をひいていった。今日はデートの予定はない。もとより、デートというデートはしない。彼女が男と会うときは、部屋に呼ばれるか否かだ。上下の唇を合わせ、みちーっという音をたてて、ねっとりとそのふたつが離れていき、ハルは並びの悪い歯を剥き出して、口紅がついていないか入念にチェックする。色の悪い歯茎を丸出し、その猿のような口元を、白髪の従業員が鏡ごしに視線で咎めながら通り過ぎて行く。ハルは携帯電話を見る。誰からも連絡がないことを再度確認し、髪の毛のゴムを引きぬいて、ふんわりと肩あたりで整える。右斜めを向き、左斜めを向き、エラが髪で隠れていることを確認して、また携帯電話を見る。やはり誰からも連絡がない。ハルは睫毛をつまんで上向きにしごくと、ヒールを鳴らしてスタッフオンリーの出入り口より、ホテルを出た。外はもう暗く、空気はひんやりと冷たい。ハルはコートのポケットの中に手をつっこんで車のキーをもてあそんでいたが、急遽方向を変え、バルへと向かった。店の前のテーブルで立ち飲みをしている男たちのからかいを無視し、店の中に入る。その途端、あたたかなオレンジ色の光と喧噪が彼女を包む。カウンターでビールの小瓶を受け取ると、そばのカウンターの男たちがハルをからかった。

「ようハル、お相手探しか?」

「今日は誰も捕まえられなかったのかい?」

「この店でいいじいさんが捕まえられるといいがな」

ハルはビール瓶から口を離し、男たちのテーブルを一瞥した。

「ビールそれ三本目?三本以上飲むともうアソコが使い物にならないんだから、今日のあんたに私の相手はもう無理ね」

男の周りは大ウケで、肩や背中をバンバン叩き合う。

「うるせぇ、あれはビールのせいじゃねえ、相手がお前だったからだよ」

「あんたにはあのロースハムみたいな奥さんがお似合いよ、さっさと帰って抱いてやれば?ああ、奥さん相手だとビール一本でもう勃たなくなるんだったっけね」

別の男が叫んだ。

「俺はいいぜ!ハル!イソギンチャクみたいなその口でくわえてくれよ、今、ここで!」

男は両手を広げて天を仰いだ。ハルは思い切り口角を下げて顔をしかめた。男たちがゲラゲラと笑う。「その顔まるでアンコウの唐揚げだぜ!」

 ハルは気にせず辺りを見渡し人を腰で押しのけながら店の奥へと進んだ。ヒールを履いたハルの背は、地元で飲んだくれている男たちよりも高い。フラミンゴのように首を伸ばし、ビールを煽りながら歩いて行く。そして目当ての男を壁際のスツールの上に見つけた。髪がまばらで四角いメガネをかけた初老の郵便局員は縮こまって、ウイスキーを舐めていた。

「ハーイ」ハルは背の高い丸テーブルに両肘をついて割り込んだ。男はすばやく瞬きをし、身を固くした。ハルは首をかしげて、男の飲んでいるスコッチグラスのふちを人差し指でなぞった。男が動けないでいるのを見ると、ふ、と笑って、グラスを爪ではじいた。小さなゴングのように。男は痛そうに目をしかめた。ハルは灰皿を自分に近づけて、タバコをくわえた。

「今日は疲れたわ」タバコに火をつけ、深く吸い込む。「暇疲れってやつね。女たちのゴシップや夫の悪口にはうんざり」ハルは煙を長く吐き出し、男の腕に手を重ねた。「まっすぐ帰りたくないのよ、ダーリン」

遠くで男たちの笑い声が響いた。ハルに腕をなでられたまま、郵便局員は顔を赤らめ、メガネのふちを空いているほうの手でずりあげた。

「困るよ」男はかろうじて言った。「こんなところで、話しかけないでくれ。君のことはみんな知っている」

「私たちの関係を?」

「君と、この町の男たちの」

「それと、ここに来る男たちの?」

「ああそうだそういうことだ」男は再びメガネのフレームをずりあげた。

「私と喋ると、あなたの出世に響く?」

男は自嘲気味に笑った。「もう出世なんかしないよ」

「ねえ、二人きりで飲み直さない?」ハルは男を覗き込み、彼の手の甲に生えているやたら濃い毛をしごいた。男は目をぎゅっと積むって、堪え兼ねたように口を開いた。

「どうして私なんだ」

ハルは男の赤い耳に唇を近づけた。

「今日来ている男の中で、あんただけが、私を正常位で抱いてくれるからよ」ハルは唇をなお近づけた。ハルが唇を動かすたび、彼の外耳は愛撫される。「私今夜はキスをしながらいきたいの」

男の肺が、大きく膨らみ、より一層顔が赤らんだ。彼女を抱く男のほとんどは、彼女に後ろを向かせる。彼女の下品な顔や、薄く垂れた胸、浮いた肋、黒い豆のような乳首などを見ずに済むというのもあったが、それ以上に彼女の背中は、それはそれは美しいものなのだった。なめらかな肌の下に、浮かび上がる肩甲骨は翼のようで、赤毛から見え隠れするうなじからは、なぜかいい花の匂いが立ち上り、背骨のひとつひとつは、どこか遠い国の装飾品のようであり、希少なものに思えた。男たちは、ハルの背中に神秘的なものを見る。真新しい、洗い立てのシーツのように清潔で、手をすべらせずにはいられない。そしてひとたび触れれば、男たちはもう、どうしようもなくそれを引き裂きたいような淫欲をかきたてられてしまうのだった。だから男たちはみな、彼女のことをどんなにからかい悪く言っても、彼女の背中については触れなかった。彼女の背中について触れるのは、文字通り、彼らがその指でする時だけだ。そこは彼らがみな自分自身しか知らないと思っている、神聖で、なのにたまらなく劣情を抱くという、そらおそろしい場所なのだった。

「とてもつまらない一日だった」ハルは男の手の甲の毛をもて遊ぶ。「それを帳消しにしてほしいのよ、ダーリン、あなたの力が必要なの」

男は耐えられないというように目をきつくつむり、小刻みに何度も頷いた。

「わかった、わかったもうわかったから」男は椅子から降りた。「ただし私をもう二度とダーリンだなんて呼ぶんじゃない」

「わかったわ」ハルは男の腕を取った。男は熱しすぎた湯船から手をひくように彼女から腕を抜き、紙幣をテーブルの上に投げるとそのままこそこそと出口に向かった。ハルは小娘のような笑みを浮かべて後をついていく。店の男たちが指笛を鳴らしたり、笑ったり、下品な言葉のシャワーを彼女にあびせかける。バーテンダーは嫌そうに首を振る。ハルは扉を開けると、店内を振り返り、ウインクをひとつして、外へとすり抜けた。男たちはそのウインクに全員吐き気を催し、ビールをもう一本ずつ追加注文した。