ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

6

 いた。

 ロッカの瞳の照射は、つるつるの頭を捉えた。今日も聾唖のご婦人方3人といっしょにバス停のベンチに座っている。ピアノをさぼった甲斐があった。ロッカはごくりとつばを飲み、ざくり、と一歩を踏み出す。歩みは、虫取りのそれと同じ慎重さで。ベンチの端までやってきたところで、ようやく男は足下に現れた影に気がついた。ロッカはバスを見やった。折り返しの準備が整うまで、まだ時間がありそうだ。ロッカはもう一歩近づいた。男はおもむろに立ち上がり、片手で席を促した。ああ!座りたいんじゃないの!ロッカは慌て、ずいっと男の前にせり出した。男は少し驚いたように、胸の前にいるロッカを見下ろし、それから辺りを見回した。ご婦人方が手話でこそこそと言い合っている。視線から、二人のことを話していることは間違いなかった。男とロッカの靴の合間を、一筋の埃っぽい風が通り抜けて行く。

「あなたはだれ?」

 こんにちはを言うつもりで、ロッカの口をついて出た言葉はこうだった。男は二三度まばたきをする。意外と睫毛が長いな、とロッカは思う。それから、顔に細かな皺があることにも気づく。思っていたより、年上かも。

 ブー、とバスが音をたて、乗車口を開けた。ロッカは舌打ちをした。男がバスの後ろ側にまわっていくのを見て、ロッカは運転席の窓に駆け寄って窓をノックした。

「あの人はだれ」しかし言葉は車中の運転士に届かなかった。ロッカはバスの車体を蹴りつけた。

「おい!」運転士は窓を開け顔を出した。

「あのひとは、だれ!」ロッカは指差し、叫んだ。

運転士はちらとバスの後ろ側を見やり、ああ、とつまんなそうに言うと、「ありゃ、ボッカだよ」と言って、ロッカを手で追い払うと、クラクションをひとつ鳴らし、バスを発進させた。

ブロロロロ、と音をたてて目の前が埃だらけになって、その埃の隙間で、長いはしごが小さくなって行く。ロッカの鼻の穴は大きくふくらみ、つま先は、自然にリズムを踏んでいた。曲目は、無伴奏打楽器のみのアンサンブル「彼の名はボッカ」。ロッカの踏むリズムはタップとなり、飽き足らず、手も打ち鳴らす。地面から次々沸き起こる泡のような喜びを、彼女のリズムは踏みつけ続けた。そうしなければ、身体が浮かび上がって降りてこられなくなりそうだったから。