ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

4

 金切り声が家中に響き、マーシャとロッカは顔を見合わせた。バタン、とトイレの扉が開く。乱れ髪が、出過ぎたほお骨の上に散らばり、肩をいからせ目を見開いているハルがそこにいた。駆けつけたロッカは母親のその姿を、まるで死神のようだと思った。ハルは娘の頭の上を片手でつかんでぐるり方向転換させ「庭のハーブをつんできて」と突き飛ばした。

「なんのハーブ?」

「いま生えているやつならなんでもよ」

「キャットニップも?」

「いいから全種類よ、はやく!」

ロッカはビューッと走り去る。

「はやくって子どもに言いすぎない方がいいらしいわよ」マーシャがのんびりと言う。ギロリとハルが睨みつける。マーシャは食卓に座ったまま、新聞紙を掲げてみせる。「投稿欄に書いてあった」

 その言葉を無視し、ハルは思い詰めた口調で言った。

「下の毛が白髪になってた」

「下の毛?」

「陰毛よ」イライラとハルが言う。マーシャは、ああ、とあくびをする。ハルは食卓の椅子に倒れ込むように腰掛け、ため息とともに顔を両手にうずめた。「髪の毛だって白髪はないのに…」

「一本?」

「五本よ!」ハルはキッとにらみ上げ、改めてその口から飛び出た言葉を噛み締め、手を開いた。「五本よ…」と再度口にし、その手をぎゅっと握ってしみじみ嘆く。

「下の毛が先に白髪になるだなんて。人生なにがあるかわからないわね」

「神様が、あなたもいい年なんだからって忠告しているんでしょうよ」

「もっとはやく脱毛したらよかった。知ってる?脱毛のためのあの光線はね、黒いものに反応するから白髪になったらもう抜けないんですって。もう一生自分で、ピンセットで抜いていくしかないのよ。ああ、これからは、直前に念入りに調べないと」

「あきらめなさいよ」

「姉さんはいいわね。全身つやつやのふさふさで」ハルの嫌味に、マーシャはのんびりあくびをしながら立ち上がって窓辺に行くと、プッと吹き出した。

「ロッカを戻してあげなさいよ、かわいそうに、あの子、庭中を探しまわってる」

「いいのよ、パワーが有り余ってうるさいったら。ちっとは体力が削れるでしょ、ああもうこんな時間」

「今夜は遅くならないのよね?」

「誰にも誘われなければね」ハルは並びの悪い歯をずらりと見せて笑った。あなたが誘わなければでしょ。マーシャは思ったが、もちろん黙っていた。

 朝食がようやく始まり、それとともに、追求も始まった。ロッカがフォークの先で豆をつつきましているのを、細目で見下ろしていたハルは、口の端をねじ曲げるように「それで?」と聞いた。マーシャは静かに目の前の栗の皮を爪でむいている。栗で栗を向いているよう、とロッカはぼんやり思った。

「それで、どうしたの」ハルはもう一度聞いた。なにかを宣告するかのように言葉は響いた。

「どうしたの…って、なにも?」

「嘘をついてタップを休んで?」

「それで…家に帰ったけど」

「食べ物で遊ばないでよ」とうとうハルがロッカのフォークを取り上げ、ロッカの鼻先に突きつけた。「これで休んだの何回目?」

「もうやめさせてあげたら?」マーシャが口を挟んだ。

「姉さんは黙ってて。タップが嫌いなわけじゃないのよね、ロッカ?」

「もちろん嫌いじゃないわ、それに同じ数、ピアノも絵画教室も塾もさぼってる」ロッカはマーシャに得意げに言った。「全部平等になるようにしているの」

「なぜ嬉しそうに言うの、ロッカ」

冷たいハルの声に、ロッカはぎゅっと口をつぐんだ。

「姉さんも姉さんよ、私がいない間はちゃんと監督してもらわないと困るわ」

「言ったって聞かないのよ」

ロッカは、そうなのよね、と他人事のように頷く。ハルはイライラを抑えながらなおも聞く。

「嫌いなわけじゃないのに、どうしてやめたいの?」

ロッカは口をとがらせ、おずおずと言った。

「だって、どれも…私の暇つぶしでしょう?」

ハルの眉はつり上がった。ロッカはたたみかけた。

「だったら、家で暇をつぶしていたい。私、家や、マーシャの小屋でやりたいことが山ほどあるの。道ばたにも、庭にもある」

「それは休日にもできるでしょう?」

「マーシャの手伝いがしたいのよ」

「ママは人間にしかできないことをしてほしいのよロッカ」

マーシャは天井を仰いだ。

「タップをするのは人間だけだから?」

「ええそう」

「絵を描く象はいるわ」

「論点をずらさないで」

「じゃあママは私がタップを踊るクマになればいいと思っているの?」

「ロッカ!」ハルは怒鳴りつけた。「あなたはクマにはならない。二度と言わないで」

 マーシャはゆっくりと席を立った。

「姉さんはここにいて」

マーシャはうんざりした顔で、しかし再び席についた。ハルは椅子の背にもたれてふんぞりかえった。顎を指先でなぞるしぐさが、刑事のようだとロッカは思った。ここは謝ったほうが良いとロッカは悟り、その通りにしたが、効果はなかった。「謝ればいいというものじゃないのよ」とハルは言うが、謝らない方がもっとひどいことになるのをロッカは知っている。

「再発を防止する」組んだ腕の片方を出し、ハルは手を包丁のようにして空を切った。「そのための話し合いをしましょうと言っているの。あなたはね、ロッカ、習い事に行かなくてはいけないの。気分で休んでいいものではないのよ」

「そうなの?知らなかった」

「嘘を言いなさい」

「でも」

「でもはなし」

「だけど体調が悪かったら休んでもいいんでしょう?心だって、体調のひとつだわ」

「ママはあなたがくしゃみをしたくらいで学校を休ませたことはありませんよ」

ロッカは黙った。皿の上の料理は、冷気が漂うほど冷えきっている。

「黙ってないでなんとか言いなさい」

「言っても無駄よ、ママとの話し合いなんて、ママの結論に寄せていくだけだもの」

ガタリと音がして、食卓を大きな影が覆った。

「悪いけど、本当にもう小屋に行く時間だから」マーシャが言った。

ロッカはするどく小声で言った。「二人にしないでよ!」

「観光客が来るし、後で役場にも行かないといけないの、PR会議があるのよ」

ハルは吹き出した。

「クマを交えて、なんの会議よ。山がダメなら今度はクマ頼り?」

「噴煙はもうすぐ収まるだろうって、今朝のラジオで言っていたけど、どうかしらね」

「おさまったって、人はすぐ戻らないでしょ」

「ロープウェーができればね」

「ロープウェーができたら、なに?」とロッカ。

「登山をする人以外も来るようになるって話。そしたら観光客がもっと来て…とにかく行かないと」

「行かないでよマーシャ!」

「あなたはね、私をだましたんですよ、ロッカ」のんびりとマーシャは答えた。ロッカは下唇を噛んだ。

「知っていたくせに」

「知らなかったわ」

「共犯だと思っていた」

マーシャはロッカの手に自分の手をかさねた。肉球は少し冷たかった。

「傷つきやすい犯罪者ね」マーシャはその黒い爪の背で、ロッカの頬をひとなですると、のそのそとダイニングルームから去って行った。そして、母子は部屋に二人きりになった。残された部屋の中、時計の針が音を刻むのが怖くて、ロッカは椅子の足に、タカラッタカラッタカラッと、タップのリズムを鳴らす。陽気に響けと願いながら。そしてまじない代わりの早口言葉をすばやく唱える。「傷つかないきつつき、傷つかないきつつき、傷つかないきつつき…」言いにくければ言いにくいほど、心は強くなっていく。