ボッカとロッカ

This is a work of fiction.

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 小屋の裏手、目隠しにしている生け垣の向こうに、彼女たちの家は建っていた。窓枠と三角屋根は緑色、マーシャとハルが産まれ育った家。やがてハルが家を出て、両親が亡くなり、ハルが戻り、マーシャがクマになり、ロッカが生まれ、育っていくのを見守る家。

 帰宅をすると、まずロッカは風呂場に向かった。以前はベッドに入る直前だったが、身体に付着した火山灰を家の中に落とさないためにできたあたらしい習慣だった。部屋着に着替えて宿題をし、終わった頃にはたいてい夕飯の時間になる。ホテルの清掃員として働くハルの帰りは遅いので、夕飯はたいてい、ロッカとマーシャの二人きりだった。豆や芋、魚と野菜、パンとスープ。デザートはプティングか、カスタードか、ヨーグルト。毎日そんな感じの夕飯をすませ、マーシャは喋り続けるロッカを自室に追いやると、リビングでラジオのスイッチを入れる。クマになる以前、彼女は刺繍をした。今は爪を使って編み物をする。帽子や靴下を作り、お土産品として売っているのだ。クマの作った靴下はよく売れる。

 ロッカは机に向かうと、引き出しから、布表紙のついた「とっておきノート」を開いた。ページをめくり、見開きいっぱいに書いた升目のページを開く。その升の中、「奇妙な人と会う」の、筆圧高い文字の上を、蛍光マーカーでじっくり塗りつぶす。今年マーカーで塗られた升は、「いんげんを残さず食べる」「オリジナルの縄跳びの飛び方を開発する」「嫌いな奴の顔につばを吐く」「先生に気づかれないように消しゴムを刻む」。それからなにも書かれていないページを開くと、ロッカは今日見たはしご男の絵を描いてみた。はしごはページいっぱい、高く描く。ひっこんだ目は、なに色だったかしら。しばし考えてから口をとがらせ、ロッカは水色のペンで、ぐりぐりと小さな瞳を描き入れた。足下にはバスの発車時刻を書き入れる。なかなかうまく描けた。ロッカは鼻息荒く、俯瞰する。頭の中に、たくさんのクエスチョンマークが泡のように浮かんでは弾ける。どこから来た人?名前は?とつぜんあのベンチに生えてきた?まさか!ご婦人方はどうして彼に目もくれなかったの?もうさんざんじろじろ見たのかしら。うらやましい。いつもあの時間あのバスに乗るの?私がタップを踏んでいる間、あのベンチにいつも座っていたの?つぎはいつどこで会える?そう、会えると思う。あれはきっと旅行者じゃない。

 うすく、マーシャの聞く管弦楽が流れて来る。窓には、ペンのお尻を顎に押し付けて考えふけるロッカが映し出されている。

 ふ、とロウソクの火を吹き消すように音楽が立ち消え、ロッカはハッとする。玄関扉の鍵が開く音。ロッカは慌ててテーブルランプのスイッチを消しベッドに滑り込んだ。鍵を小皿に投げ入れる音、続いて乱暴な足音が響き、ダイニングテーブルの上の料理を電子レンジの中に入れその扉を閉める音。スイッチオンの、オンの音。蛇口から水がしばし流れ、蛇口が締まり、大きなため息。ロッカはじっと息を潜める。乱暴な足音が遠のき、冷蔵庫の開く音、缶のプルグが開く音、大きなゲップ、電子レンジのチャイム。ここまでで、ロッカの部屋にあがって来なければ一安心。どうやら今夜はマーシャの書き置きはなかったようだ。マーシャが夜、帰宅した妹に直接なにか言うことは殆どない。彼女はいつも、妹の足音と匂いを嗅ぎ分けて、直前に勝手口からそっと出て行く。疲れて帰宅した妹の心は荒れていて、喧嘩になりがちだからだ。

 すっかり安堵したロッカは布団の中に引き入れた懐中電灯の灯りを点け、ノートを開いた(狭いので片開きにして)。さきの男の絵を眺める。布団の中で見ると、宇宙人のように見える。耳を描いていないせいだろうか。耳は覚えている。とても人間らしい耳をしていた。人間の耳のお手本のような耳。耳には耳門というものがあって、それは指紋と同じように他人とかぶらないと、学校で聞いたっけ。きっと彼のそれは、耳門の見本に使われているに違いない。警察学校で習う時の。長机にぎっしりと着席した、紺色の制服の眉を寄せた若者たちが、みんな、彼の耳を見つめている。耳門からその人物像を立ち上らせる。つるつるの頭に、いくつものカツラがかぶせられる。ああ、その黄色のギザギザのカツラはひどい、似合わない。ロッカはノートを胸に抱き、再び彼のふたつの耳だけを思い浮かべる。そこに空かし文字で、サンプル、と書き入れる。思っていた以上にしっくりときた。ロッカは水面に浮上するかのごとく、布団から顔を出す。そして天井に、懐中電灯の光線を向ける。懐中電灯を消すと、暗闇の中に、黄緑色の惑星がいくつも広がった。それらは瞬かず、彼女を夢の中へと牽引するように、ゆっくりと蓄光を失っていく。ロッカは薄れる意識の中で、小屋に帰り、檻の内側から鍵をかけ、ベッドに沈むマーシャを思う。丸くなって眠るマーシャのまわりで小さな惑星たちが、くるくると光り、踊っているのが見える。